先日、映画「ウィキッド 永遠の約束」見てきました!

やはりミュージカル好きには外せないですし、
前編見たからには後編(ミュオタ的には一幕と二幕ですが)見ないわけにはいかん!と言うわけで、行ってきました。
TOHO-ONEを使って笑
はじめに書いておきますが
ウィキッドもコードギアスもガッツリネタバレありありですので、未視聴の方はお気をつけくださいませ!
映画『ウィキッド』と『コードギアス』に感じた共通点
さて、映画『ウィキッド 永遠の約束』を観ながら、私の頭の中にずっと浮かんでいた作品があります。
それは
『コードギアス 反逆のルルーシュ』。
一見するとまったく別の作品です。
魔法と友情を描くミュージカルと、
戦争と政治を描くSFアニメ。
しかし物語の“核”を見てみると、驚くほど同じ構造を持っています。
それは――
「世界を壊す者」と「世界を支える者」
という、二つの正義の対立です。
・エルファバ / ルルーシュ
→ 外側から世界を壊そうとする存在
・グリンダ / スザク
→ 内側から世界を守ろうとする存在
この四人の関係を見ていると、
二つの作品がまるで“同じ神話の別バージョン”のように見えてくるのです。
ではまず、映画『ウィキッド 永遠の約束』のあらすじから。
オズの国に隠された真実を知り、それぞれの道を歩むことになったエルファバとグリンダ。
映画「ウィキッド 永遠の約束」 より
“悪い魔女”として悪名を着せられ民衆の敵となったエルファバは、言葉を奪われた動物たちの自由のために戦い続けていた。一方“善い魔女”となったグリンダは、希望の象徴として名声と人気を手にするも、その心にはエルファバとの決別が深い影を落としていた。和解を試みるもその願いは届かず、 ふたりの溝はさらに深まっていく。さらに、突如現れた“カンザスから来た少女”によって、オズの国の運命も大きく動き出す。世界に暗雲が立ち込める中、ふたりの魔女はもう一度、かけがえのないかつての友と向き合わなければならない。
自分自身と、世界そのものを―――永遠に変えるために。
記事の中身にあまり関係ないので割愛しますが、これから「永遠の約束」を見に行かれる方はなるべく「オズの魔法使い」も見てから行ってくださいね。
続いて『コードギアス 反逆のルルーシュ』
知らない方にざっっくり説明しますと、
コードギアスは2006年に放送開始になったアニメでして、当時社会現象を起こしていたと記憶しております。
もちろん私もハマりました。
超大国ブリタニア帝国に占領された日本=エリア11。そこに生きる二人の少年、ルルーシュとスザク。
「コードギアス 反逆のルルーシュ」公式サイトより
「ギアス」の力を手に入れ、世界を壊そうとするルルーシュ。
ナイトメアフレーム「ランスロット」を操り、世界に理想と真実を求めるスザク。
二人の対照的な生き方は、やがて帝国を揺るがす大きなうねりとなっていく。
21世紀の新たな伝説が今、始まろうとしている。
(ギアスさん今年20周年じゃないですか!おめでとうございます!)
一見、世界観は全く遠く離れているように見えますが、その“核”にあるテーマは驚くほど共通しています。
「外側からの破壊」と「内側からの改革」
まず、両作の主人公たちの立ち位置を整理してみます。
・エルファバとルルーシュ
社会のシステムそのものが「悪」であると見抜き、自らが「悪」の象徴(悪い魔女/魔王)となることで、そのシステムを根底から揺さぶろうとします。
彼らに共通するのは圧倒的な“孤独への覚悟”です。
理解されないことを前提に、たった一人で世界を敵に回す道を選びます。
彼らの正義は「破壊と再生」にあります。
・グリンダとスザク
組織の内部に留まり、ルールの中で世界を「善い方向」へ導こうとします。
彼らは大衆の希望(善い魔女/ナイトオブセブン)であり続けなければならず、その清廉潔白な仮面を維持するために、時に本心を殺し、最も理解し合えるはずの友と剣を交える/別れを迎えることになります。
彼らの正義は「継承と浄化」にあります。
共通するテーマ:大義のための自己犠牲と、嘘の効用
両作に共通するテーマは、“平和や変革のためには、誰かが『悪』を引き受けなければならないのか?”という問いです。
『コードギアス』における「ゼロレクイエム」は、憎しみを一人に集めて世界をリセットする儀式でした。
『ウィキッド』においても、エルファバが背負わされる「邪悪」というレッテルは、実はオズの国を一つにまとめるための都合の良い「共通の敵」として機能してしまいます。
ここで注目すべきは、「嘘(フィクション)」が世界を救うという皮肉な共通点です。
ルルーシュは自らの死によって平和という嘘(希望)を現実にし、
グリンダは「善い魔女」という偶像を演じ続けることで民衆に安らぎを与えます。
ナナリー(ルルーシュの妹)は“大好きなお兄様”が悪く言われ続けようとも、お兄様の想いを背負って口をつぐみ続けて生きていく。
真実を知る者が、真実を墓場まで持っていくことでしか守れない平和。
この「優しい嘘」の残酷さが、観ている人の心に、より深く突き刺さるのではないでしょうか。
異なる部分:アイデンティティの根源と、愛の形
一方で、両作で決定的に異なる部分もあります。それは「なぜ戦うのか」という動機と、その結末へのアプローチです。
・血縁か、本質か
ルルーシュの戦いは、母の死と妹の幸せという「血縁・復讐」から始まります。(最終的にお母様もとんでもないお母様だったわけですが😅)
対してエルファバの戦いは、生まれ持った肌の色や才能ゆえの「疎外」から始まり、知性を持つ動物たちの権利を守るという、より「個の尊厳」に基づいたものです。
エルファバの方が、より「自己のアイデンティティ」と密接に関わっています。
・裁きと解放
スザクは自らに「生きろ」という呪いをかけられ、一生仮面を被って生きるという「罰」を完遂します。
しかし、『ウィキッド』におけるグリンダの変容は、単なる罰ではありません。
彼女はエルファバとの出会いを通じて、自分の未熟さと向き合い、真の意味で「善くあろう」とする精神的な成長を遂げます。

また、『コードギアス』が「世界の再構築」という政治的決着を目指すのに対し、
『ウィキッド』はあくまで“二人の女性の魂の交感”に重きを置いています。
世界が変わるかどうかよりも、隣にいた親友に自分の真実が伝わったかどうか。
そのミクロな視点が、ファンタジーでありながらどこか私たちが日常で感じる人間関係の機微と重なるのです。
「理解者」という名の救済:なぜ二人は惹かれ合うのか
なぜこれほど正反対の二人が、死ぬまで(あるいは死を超えてまで)互いを想い続けるのか。
それは、“自分の汚さを知っているのは、世界で唯一あいつだけだ”という孤独の共有があるからです。
グリンダにとってのエルファバ、エルファバにとってのグリンダ。
スザクにとってのルルーシュ、ルルーシュにとってのスザク。
お互いに、自分に欠落しているピースを持っているからこそ、激しく反発し、それ以上に深く想いあってしまう。
これは単なる友情ではなく、「失われた自分の一部」への思慕なのかもしれません。
今、この二作を見る意味
コードギアスもウィキッドも、初見はもう何年も前ですが(ウィキッドは劇団四季の公演を見ているので)、
なぜいまだにこの物語たちに惹かれるのか。
それは、社会という大きなシステムの中で「正解」が見えにくい時代だからかもしれません。
組織に従順であれば、グリンダやスザクのように自分の心を摩耗させる。
信念を貫き通せば、エルファバやルルーシュのように孤立し、排除される。
どちらが正しいという答えはありません。
ですが例え世界中を敵に回しても、あるいは一生仮面を被り続けることになっても、
“自分の真実を知ってくれている人が、たった一人でもいる”ことがどれほど救いになるか、と言うことを物語が教えてくれているように感じます。
『ウィキッド 永遠の約束』の結末で、二人がどのような言葉を交わすのか。
それは『コードギアス』の最終回、ルルーシュがスザクに剣を託したあの瞬間のカタルシスに近いものなのかもしれません。
エルファバへの憧れと、グリンダとしての自覚
私たちがエルファバやルルーシュに本能的に惹かれるのは何故か。
それは彼らが『自分自身の真実に忠実』だからです。

社会のしがらみ、空気を読む必要性、キャリアや世間体……それらすべてを投げ捨て、『自分たちの願い』のために突き進む。
その姿は、私たちが日々の生活で削り取ってきた「剥き出しの自己」の象徴です。
しかし、現実を見つめたとき、私たちが「自分はどちらか」と問われれば、多くの人がグリンダやスザクの側を指差すのではないでしょうか。
それは妥協ではなく、『守るべきものがある者の責任感』を理解しているからです。
エルファバ(ルルーシュ): 刹那的で爆発的な生。世界を壊し、自らも“いなくなる”ことで「完成」する。
グリンダ(スザク): 壊れた後の世界で、「善き魔女(平和の守護者/ゼロ)」を演じ続け、システムを内側から運用し続けなければならない。
大人になり、社会の中で中核を担うようになると、私たちは「壊すこと」よりも「維持すること」の難しさを知ります。
グリンダが劇中で人々の前で見せる完璧な笑顔。
それは、組織の不条理を知りながらも、周囲のために「大丈夫」と言い続けなければならない私たちの日常そのものなのではないでしょうか。
私たちが完結編で見届けるべき「真実」
物語の終盤、エルファバは自らの名誉を捨ててまで、ある「決断」をします。
そしてグリンダもまた、その「悪」の恩恵を受けながら、たった一人で歴史の表舞台に立ち続けます。
物語のラスト、民衆に歓喜されながら、彼女がその瞳の奥に何を隠したのか。
それは、組織の歯車として、あるいは誰かの理想として生きることを選んだ私たちが、
いつかどこかに置き去りにしてきた「本当の自分」への弔いかもしれません。

「死による完成」と「生による逃避」:結末が分かつもの
『コードギアス』でスザクがゼロの仮面を被り、涙を流しながらルルーシュを貫いたあの瞬間。そして『ウィキッド』のラストシーンで、グリンダが一人でオズの空を見上げる瞬間。
そこにあるのは、単なる別れではなく、“願い”の継承です。
ここで、両作の最も大きな違いであり、私たちの人生観を揺さぶる「結末の対比」に触れなければなりません。
ルルーシュとエルファバ。二人の反逆者は、最後に全く異なる選択をします。
ルルーシュの「ゼロレクイエム」
彼は自らの命を絶つことで物語を完結させました。
それは「明日を迎えるための死」であり、彼が世界に与えた最大の贖罪です。
ルルーシュが死ぬことで、彼を象徴とした「憎しみの連鎖」は止まり、
世界は強制的に次のステップへ進まざるを得なくなります。
彼にとっての死は、「究極の自己責任」の形でした。
エルファバの「永遠の約束」
対して、エルファバは愛するフィエロと共に、オズの国から去る道を選びます。
彼女は「死んだ」ことにされることで世間から消えますが、
その実は生きて、愛する者との「個としての幸せ」を手にします。
彼女の選択は、「犠牲からの解放」の形です。
「世界を救うために死ぬこと」と、「世界に背を向けてでも、自分として生き続けること」。
どちらがより困難な道でしょうか。
ちなみにコードギアスには「復活のルルーシュ」と言う、ルルーシュが生きていたという設定の続編(詳しくは割愛します)がありますが、これは改めてTVシリーズを劇場版3部作に再構築された物語からの続編ですので注意してください。私はTV版のラストが好きなのでうーん…と言う感じですが😅、気になる方はぜひ劇場版3部作から見てみてくださいね。
結びとして
ルルーシュもエルファバも、最初から世界に反逆しようとしていたわけではありません。
ルルーシュはただ、妹が安心して生きられる世界を望んでいただけでした。
エルファバもまた、自分の力を正しく使い、世界の役に立ちたいと願っていました。
つまり二人とも、最初は「世界に理解される側」に立とうとしていたのです。
しかし彼らはやがて気づいてしまいます。
その世界のシステムそのものが、
自分の願いを受け入れる構造になっていないということに。
理不尽な権力。
作られた敵。
都合よく利用される正義。
その中でただ従うだけでは、何も変わらない。
だから彼らは選びました。
世界に理解される道ではなく、
世界を敵に回す道を。
ルルーシュは「暴君」として死ぬことで世界を変え、
エルファバは「悪い魔女」として歴史から消えることで自由を手にしました。
どちらの選択も、決して美しいものではありません。
しかしそこには確かな共通点があります。
それは――
システムに組み込まれることよりも、自分の真実を選んだこと。
そしてその真実を、ただ一人理解している存在がいたことです。
ルルーシュにとってのスザク。
エルファバにとってのグリンダ。
世界が彼らをどう語ろうと、
その真実を知っている人がどこかにいる。
それだけで、彼らの選択は無意味ではなくなるのかもしれません。
世界を壊す者と、世界を守る者。
私たちはきっと、そのどちらにもなれません。
けれど、その間で揺れながら生きているのだと思います。


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